2013年11月22日金曜日

オーバードーズ:サイコ・カタストロフィー

池袋西口公園にインドネシアの演出家ナンダン・アラデアの新作『オーバードーズ:サイコ・カタストロフィー』を観劇しに行く。
寒空の下、池袋の公園に向かうと公園内に竹製の大きなセットがあった。
受付でホッカイロを渡され、客席に座る。
客席と言っても、舞台となる中央部分が見やすいように少し高めに用意された竹製の客席で、そこも含めもちろんすべて野外だった。

自由席だったので適当に座ると、そこから西口公園の大きな時計が見えた。
最近、宮藤官九郎脚本の昔のドラマ『池袋ウエストゲートパーク』を久々に見ていたので、「あ。ドラマに出てきてた時計や。」と思った。
時刻は開演の19:00を指していた。

舞台美術はすべて見えたわけではないが、大きな銅鑼のようなものが吊るされていて、組まれた竹の床面には水が少し溜まっているようだった。
5人の半裸のパフォーマーと1人の白装束のパフォーマーが出てきて舞台が始まる。

作品は始終、何が行われているのかわからなかった。白装束の彼が(たぶん)インドネシアの言葉の歌を歌って銅鑼を叩いたり、天狗みたいなお面を被ったり、5人のパフォーマーは大きく築かれた竹のセットを登ったり降りたりして、ロープを外したり、棒を穴に刺したりと作業をしている。
本当まさにインドネシアの人が行う作業と儀式を1時間ほど見たという感じだった。


でもとても良い作品だった。
言葉も行動の意味も何もわからなかったが、この作品を見ながらいろいろなシーンを想像した。
食べること、寝ること、服を着るということ。人間が集落を作り、やがてその地で力を合わせて土を耕したり、漁をしたりして働くこと。生き物を殺すこと。心の区切りの為に祭典や儀式をすること。
歌を歌うこと。
私には視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚のすべてがあるのだと認識しながら目の前の出来事を見ていた。


-アマゾンを舞う1匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせる-
という言葉があるけど、これが見終わった後思い浮かんだ言葉だった。
池袋の街の風に晒されながら見ていたせいかもしれない。
この目の前のインドネシア人たちの動きが風を通して世界中と繋がっているような気がした。

作品の終わりに、5人の男が木と木を擦り合わせて砕いた木屑を観客に配った。私の掌にもそれは配られた。
少し黄色がかったオレンジ色をしたその粉はどこかで嗅いだことのあるような少しスパイシーな匂いがした。
外国の料理を食べに行った時か、海外に旅行したい時か…いつだったかなと思っていると舞台は終了した。
6人のインドネシア人が笑顔でお辞儀をしている。掌の粉を落とさないように気をつけながら拍手をし、ふと公園内の時計を見たら時刻は20時前を指していた。
インドネシア人の顔を見ながら、池袋ウエストゲートパークの長瀬智也を思い出した。

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